裁判開始から判決まで
見世物状態の裁判
1995年1月。事件から7ヶ月の時を経て、ついにO・J・シンプソンの裁判が始まります。裁判所の上空にはヘリが飛び、裁判所の周りにはテレビ中継車が何台も集まり、裁判官は裁判の様子をテレビで生中継することを許可しました。
1995年2月1日、裁判6日目。O・Jの友人で元警官のロン・シップが、検察側の証人として証言台に立ち、かつてニコールがO・Jに殴られていたことを証言しました。
弁護側はもう1人の被害者であるロン・ゴールドマンの犯行を主張しますが、O・Jのニコールに対するDV事件が次々に判明します。ニコールは生前、O・JからのDV被害で8回も911に通報していました。そのうえ、ニコールが記録したDV被害を示す写真や日記の証拠も見つかります。
しかし、裁判が進むにつれてメディアの報道は過激になっていき、O・Jの裁判は見世物状態となりました。アメリカを代表するアメリカンフットボール選手であるO・Jの裁判は、世紀の裁判と称され、世間の注目の的となります。
事件を取り上げれば視聴率や発行部数が上がることから、どのテレビ局やタブロイド紙もO・Jの事件で持ちきり。数字欲しさにどんどんと過激になっていったメディアは、話を作り上げ、勝手に結論を決めていきます。
O・Jの元々の知名度も相まってアメリカ史上最も有名な被告となった彼は、まさに見世物状態となり、法廷は舞台と化しました。
また、この事件はタブロイド紙の偽善を初めて明らかにするきっかけともなりました。O・Jのグッズや彼の愛車ブロンコまでもが飛ぶように売れ、この裁判は没入型の体験、コメディ番組のようになっていたのです。事件に関するジョークがあちこちで流れていました。
判決
弁護側は、ロサンゼルス市警の刑事の1人が過去に人種差別に関する過激な発言をしていたことや、鑑識と警察が犯した重大なミスを暴き、O・Jが犯人であるという証拠の信憑性がないことを主張します。
弁護側が指摘した検察側の不可解な点は、以下の通りです。
- O・Jの殺害を紐づける証拠を発見した刑事が人種差別主義者であること
- 鑑識が証拠品を素手で触った
- 鑑識の証拠保全の不十分さ
- 複数の証拠品が動かされている(証拠品を映した写真から証拠品の位置が異なるのがわかる)
- 犯行現場で採取されたO・Jの血痕には保存料が入っていた
- 事件翌日の写真には血痕がないのに、2週間後行われたDNA採取の時には血痕があった
これにより検察側のイメージはガタ落ちしたうえ、O・Jを犯人だと紐付ける最大の証拠だった手袋が実演で合わなかったことから信憑性を疑われます。ロサンゼルス市警の上層部は、裁判の争点が人種差別者の刑事に向けられたことを受け、O・Jが犯人であると紐付ける多くの証拠を裁判では使わないよう指示しました。
1995年10月3日、裁判162日目。ついに陪審員による評決が下されます。およそ1年間に及ぶ長い裁判だったにもかかわらず、陪審員はわずか4時間で全員一致の評決に達し、関係者は驚きを隠せませんでした。
O・Jシンプソンは、ニコール・ブラウンとロン・ゴールドマンの殺害罪で無罪となりました。
この判決は世間でも賛否が分かれ、1996年10月23日に被害者家族は民事裁判を起こします。刑事裁判と民事裁判の違いは説明責任にあり、被害者家族はO・Jの責任を証明することを目的としていました。この裁判では前回とは異なる陪審員が選ばれ、裁判官はカメラを締め出しました。
1997年2月4日、事件から2年半後。陪審員は全員一致で、O・Jは2人の死に責任があると決めました。O・Jには3350万ドルの賠償金の支払いが命じられましたが、O・Jはあらゆる資産を隠して回収できないようにしました。
なお、O・Jの殺害を紐づける証拠を発見した人種差別主義者の刑事は、偽証罪で有罪となっています。O・J・シンプソン事件で唯一の有罪判決を受けた人物です。
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